昭和42年5月1日 月次祭
「真にありがたしと思う心、すぐにみかげの始めなり」真にありがたしと思う心すぐにおかげの始めなり、なかなか真に有難い心は湧いてまいりません。・・?そして御徳を受けてまいりますところから真に有難いという心が生れてくる。どういう信心か、親教会 善導寺の前の総代をしておられた岸という山門の前に饅頭屋のお兄さんが、善導寺に教会が出来ましてから信仰にはいられたなかでも一早く岸さんがご信仰を頂かれた、信仰を頂かれれば頂くほど有難い神様だということが、解っていかれる。
この方には持病がある。脳病、朝目がさめてすぐ起きようとするもんならふらふらして倒れなさるというほどに脳持ちである。その事のお取次を願われたときに、初代の荒巻先生がお解きになった御理解がある。真に有難いと思う心、すぐにみかげの始めなりという事だった。信心しておって変わったことがおこってきたら、有難いと心得て信心せよということでもあった。信心しておって変わった事がおこってくるということは、お願いをしておったら、おかげを受けたというのではなくて、変わった事がおこる。変わった事がおこってきたら有難いと心得て と、その変わった事がおこってきた時でも、有難いと思う心が湧いてくる。そういう心が真に有難いということですよ、お願いしておって、願いどうりになったという時の有難いというものは真に有難いのではない。それとこれは反対のようなことが起こってくる。願ったこととは違ったことがおこってくるけれども、教祖の神様は変わった事が起こってきたら、有難いと心得てという事は、もうすでに神様の働きが始まったんだぞと、という事なんです。そん時に言えることです。はあ、有難いと云う心になったらおかげになる。
今頃だったでしょうね、このバラがいっぱい植えてある。善導寺のも向こうのほうへバラで門が作ってある。ね、今でもしておりますが。それがその裏木戸を開けられてそれにひかかっておったんです。それでその開けられたとたんにですね、下からパーッと、上がったのが下がって・・・・?頭に残ったんですね。もうとたんに思われたそうです、有難う御座いますと、これは思おうとして思われるものぢゃないですね。もうそれこそ真っ黒い血が沢山この頭から出た。もうそれっきり脳の病気を忘れたようにおかげを受けられた、というお話でした。
真に有難いと思えというて私も思おうと思って思われるものぢゃない、やはり初代の御取次の御徳という事と同時に、御理解が効いたんですね、信心しておって変わった事が起こってきたら有難いと心得てというところが解った。私今日はそういうような事を、現代の言葉で云うなら、「信仰的感動」という言葉を伝えたのだと思います。
真に、ありがたい、これは宗教をもって、信仰をもってしなければ頂けないところの有難さ、そういう感動が湧いてくる。いや、そういう感動を求めて私どもが日々信心の稽古をさせて頂く。
先日、親教会の御大祭の後に・・?先生のお話がありました。本当にいつもの事ながら、もうほんとにお話の名人ですね、しかも内容の深いお話しを皆に分かりやすく、お解きになりますね。その中に禅の言葉でしょうかね、「花は紅(くれない)柳は緑」 花は紅、柳は緑、あたりまえの事なんです。花が緑で 柳が紅といったような事になったら大変なんです、あたりまえの事なんです、花が真っ赤に咲く、柳が緑、いわゆる青青としたいわば新芽をふいておる姿というものがです、あたりまえの事なんだけれども、その当たり前の事の中に、大変な天地の働きがあっておるんだと。なんの変哲もない、あたりまえの平生の事の中からです、私は喜びを感じる、また 喜びを満たすというところに信仰的感動、または感喜というのがある。そういう感動がです、私共が暑かっても暑い思いをせん、寒かっても寒い思いをせん、本当に脇から見れば、苦しい事であろうという中にあっても有難い、痛いことは痛い、たたかれれば、苦しいことは苦しい。けれども有難い、それが信仰的感動である。この苦しい中に喜びがあるだろうか、こういう内容の中に歓びがあるはずがないぢゃないかと思うのですけれども、信心をさせて頂いておりますとです、不思議にそういう中にしみじみとして、今までかって味わったことのないような歓びというものが味わえる。
最近夜の御祈念には、必ず合楽の地元の方達が最後に多いときには五人、?お参りになります だんだんお参りされていかれるうちにですね、なんと申しましょうか、そういう宗教的感動というか、そういうような雰囲気が、このお広前にあるんです。それに触れられるのでしょうかね、先生なぜかここに来ると帰ろうごとないですと、どういう訳か解らない。なんとはなしに、ゆっくりしなければおれないようなものを感じるとこう。最近なんかは私の云うことがだんだん解られるようになりました。
もう御理解を頂く度に、それこそ涙を流して御理解を頂かれる、今迄かって聞いた事のない、初めての事なんです。天地の御恩、天地の恩というようなこと、今迄聞いたことのないような お話を聞くのです。それが聞く人に感動となって伝わっていく。皆さんもそういう体験はお持ちになっておるでございましょうけども、そういう信心がいよいよ成長していかなければならない。
昨夜の御理解でございましたでしょうか、今日私信仰的感動と申しました、夕べは宗教的良心というお話、宗教的良心、信心させて頂いておるから、宗教を持っておるのだから、こんな気持ちてはいけない、こんな事してはいけないという良心が、信心しておっても、それが云うたり、そんな事を平気でされたりするなら、もうそれは宗教的良心に反しておる。これはもう値打ちがない、信心しておっても宗教的良心がないなら、これはつまらん、というて、宗教的良心があっただけでもつまらん。あああらなければいけない、こうしなければならない、こう云うべきだという事がです、解っもそれだけではいけない。そうさして頂かなければおかれないものが今日私が云う宗教的感動の中から生れてくる。心の中に当たり前のことが、神様の働きをひしひしと感じる。
花が真っ赤に咲いておる、柳が青々としておる。そういうあたりまえのことの中に、私どもが天地の親神様のお恵みをわからしてもらい悟らしてもらって、有難いという心が湧いてくる。そういう有難いという心をもって私は宗教的良心に立たしてもらう。人が見ようが見よるまいが、いや見よらないなら見よらないほど、ということはないでしょうけれど、もう見よっても同じ事、ね。お玄関に着かせて頂いた。履物が乱れておる、そこを揃えなくてはおられないのです。障子が破れておる・・・・?誰が見よるわけじゃない。そうしなければおれない感動、日頃そうした教えによって、備わってくるところの教えが、宗教的良心ともならせてもらって、そういうおかげに、そういう有り方にならせて頂く。そこから私はしみじみしたものが湧いてくる。これは湧いてくるんですね、自分が有難いと思わなんても、神様が与えて下さる、神様がずっと・・?神様が喜んで下さるから、私共の心の中にも喜が沸いてくるんです。目に見えないところを大事にする、見えないところを大事にしなければ、おかげが受けられんというのじゃなく、見えても、見えなくても、そうしなければおられないという事、そこに私は信仰的体験というものが約束されると思います。
今朝の御理解の中に、一分一厘間違いのない神様の働き、いうなら こわいお話です。もう十七、八年前のこと、ね、まだ椛目の、これ・・?神様からある時ご心眼に御結界の上に大きなふぐ提灯を下っている。そして神様から御理解を頂くのが、お道の信心はそれこそふぐのように、天下一品の珍味のような味わいある信心であるという事と頂いた。けれども一つ間違えると、命にかかわるような事になるということは、どういう事かと、こわいなあ、金光様の信心いっちょ間違えたら命を取られる、誰も信心はしやしないね、こわくて、なしかというと私共いつも間違いだらけなんです。どうぞ今日一日和賀心がかなえまつる一日でございますように、どうぞ今日あなたの心にかなう一日でありますように、今日一日腹を立てません、不平不足は云いません、今日も一日あなたに喜んで頂ける一日でありますようにということで、まあ、祈らないものはなかろうと思うんですね。お道の信心が少し身に付いてきたら、・・?どうぞ本気で根性の悪いこと言わせてください?今日だけ腹を立てだして、いっちょ立ててやりまっしょという人はおりますまい。それこそ腹も立てまい、不足も言うまい、今日こそあなたの心というものを心として、信心生活にならせて頂きたいというお願いをする。私はね、そういう皆様に日々がさらという事はそういうことだと。
三代金光だまが日々がさらと言うでございます、・・・・?日々にさらという事は私どもが朝目を覚まして御祈念をさしてもらうとき、どうぞ神様今日も一日あなたの心に添え奉る一日でありますようにと祈る、その心が和の心だという事、今日も本気でどうぞあなたの心に叶う一日でありますようにと願いに願わして頂いておりながら なら一日終わらして頂いて、振り返ってみると、あれもお粗末だった、あれも御無礼だった、腹も立てまいと思ったけれど、腹も立てた、不足も云うまいと思ったけれど また不足も云うたという事になる。そこにしみじみとお詫びの御祈念が出来るわけなんです。
だから そういうような事を間違えたからといって どうこう云われる神様ではない。皆さん、・・の中に日々がさらということはそういうことなのですから、皆さんが朝の御祈念をあせてもらうときにほんとにこれは実感としてですね、どうぞ、今日一日神様の御教えに添わせて頂きたい、心に添わせて頂きたいという願を心から持ち、それがもうさらな心の始まり、そういう信心が三十年、五十年経って行くうちにです、信心をすれば 一年一年有難うなっていくと仰るように確かに有難くなっていける。毎日毎日拝みさえすればある程度は、ね、ほんとに出来ることも出来ないのだけれども、そういう一日がです、そういう毎日が続いていくところに、汚れに汚れている心が清められていくのです。それを放任するところに、汚れた上に汚れていよいよ・・・が沸くような結果になってくるんじゃないでしょうか。年をとるに従って根性が悪くなると言うように、年をとるに従って一年一年有難う・・?なってこないのです。
それには信心したらです、どうぞ今日もあなたの心に適う一日になれますようにという祈り縋らせて頂く心、そういう心からです、それでいても間違ってくる、そこにお詫びをしていく、そういう間違いがあったというて、ならお前は、ひとつ間違えたからというて、命にかかわるようなことにもなるぞというのとは違うという事はどういうそこのところは頂かなければなりません。ひとつ間違うとはどういうことか、または、有難く頂けば、天下一品の珍味とはどういうことか。金光様の御信心は確かに、天下一品の珍味だと、それこそ一分一厘の間違いのないような働きのなかにです、おかげが頂ける、もう恐れ入ってしまいます。漠然として 一番大きな最近のおかげでは、ここにこうやって、・・・?見事な御広前が建立されたと言うこと。
これも私、奇跡だと思う。・・・・・?それが財産なら打ち向かうと言うものでもない。、、、、にもかかかわらずここへ建立された。しかも二年間の歳月を経てのことでございましたけど私共 願に願いに 願わしておった、この教会も 私の教師問題もこの十五年間、皆さんに願い続けられてきた。この事だけはどうしておかげにならんだろうかと、皆んなが云うて来た、ところが十五年たって今日思わせて頂いた事はです、ああなるほど大坪総一郎というのを教師にして、合楽の御広前の教会長にして、いよいよ神と氏子が助かっていく場が、いよいよ助かっていきよいいわば信心の稽古が出来ると同時に、私の教師の資格が許されたという事、これは出来から許されたのではない。もうずうっと神様の一分一厘間違いない働きが、十五年間の中に、こうやってあっておったのです。だから途中をいうと、どうしてこんな事ばっかり、難儀がという事があったけれども、十五年間立ってみて、なるほど神様の働きの間違いない事がわかるでしょうが、ですから途中辛抱してなかったら、こんなおかげは頂けなかったでしょうね。ほんとに信心辛抱がいるわけですね。
いつも神様の働きというものは、あっておるのです、それをあれも成就、これも成就というところを察知していくわけなんです。そういう私の十五年間なら十五年間の間でもです、思えばあれもおかげ、これもおかげと思うようなです宗教的いわば良心または、宗教的感動というものがあってです、その良心に添わなければおられない、そうしなければおれない。そして花は紅、柳は緑というような 変哲もない、なんでもない中に喜びをわからして頂いて、日常の生活の中にです、それを頂いていきよる、そういう十五年間の生姿というものがです、こういう形になって現われた。
今朝そういう御理解を頂いた後でした。総代さんの永瀬さんが、昨日お休みで家族連れで奥さんの里に ワラビ刈りに行かれた、ワラビ刈といのはいま、あの山蕗とか、いわゆるそのうどとかそんなもんしかり、日田の山奥だそうです。ところがその山の奥ひだで雨にあわれた。それで大きな杉のその根元に雨宿りをされた。ところがです、その杉の根元に傘が一本立ててあった。そういう山の中に。それこそ人が一人もないようなところに傘が立てかけてあった。ありゃほんと傘が、・?開いてみたらですね、山が書いてあって、その下に永瀬と書いてあった。田主丸で、永瀬ならば姓はあちらこちらにあろうけれども、奥さんの里に、しかもそういう山奥に 永瀬という傘が、しかも山に永瀬という印の入った番傘でございます、があっとこう。神様の御働きはとにかく太平洋の真ん中であろうと、山奥であろうが、どういう中でも神様の御働きが頂けることなんです、ただそれを私どもがそれを頂ききらないだけである。雨が降っても濡らさんという働きがあっておる。これは日頃永瀬さんの信心のいわゆるこういう徳が身についていきよるという、神様の私はお知らせであったろうと思います。傘といや、ここでは安心のおかげと仰る。どんなに考えてもね 普通の人間の頭では想像もつかないこと、または及びもつかないこと。そういうような私どもから信心がありましても信心を、祈りてみかげのないときは、祈りてみかげのあるを不思議というまじきものぞと仰せられる。祈りてみかげのないときにはこれぞ不思議なることぞ、
御取次を頂いて、お願いをしてきてるのだから、その位の事は当たり前の、その当たり前の事をです、私は当たり前として頂ききらん。それはあまりにも当たり前の事にさっきから申します、花は紅、柳は緑というような、なんの変哲もない当たり前の事のなかに、私共が有難いというものを、感じきれないから、当たり前にして頂けるおかげが、当たり前に頂けないという事になってくるのじゃないでしょうかね。
何か特別な事におかげを頂かなければ、有難くない。何か特別なここに目を見張るようなおかげを受けなければ、神様の働きでないように思うところに、間違った信心になってくるのです。真の信心はそういうもんじゃない。御取次を頂いたら最後、もう直ぐその場から神様の働きが始まるのです。
どういうような山奥で雨に会っても、そこに誰かが傘を持ってくれておるのだと。そういうおかげがです、いうならばそれを御取次頂いて私が日々不思議な事だなあと思うのです実際は、けれども神様の目から見れば当たり前の事、5と5をたせば10になるようなもの。5と5をたして8になったり9になったりするはずがない、そこに私共、計算違いというものを、わからせてもろうて、10の答えが出るのは当たり前。山で雨におうたらそこに傘があった。これは当たり前、それを頂けるところの信心というものを私どもが身に付けていく。信心してみかげのないのは不思議ではないとおっしゃる。そういうけれども私どもは不思議と思わなければ、おれないのだけれども、そういうおかげを頂ける為に、私どもは常に、朝起きたら目が覚める、本当にそれは、当たり前の事なんだけれども、目が覚めたというだけでも、大変なおかげであるという事を分からして頂くところの信心。花が真紅であっても、柳が緑であっても不思議な事ではない。それは当たり前、けれども当たり前の中にどれほど神様の働きというものが、この真紅な花の中に、緑の柳の中にあっておるかということ、そこを理屈でいうなら、なるほど神様の働きということは、解るんだけれども、こちらに宗教的感動というものがないので、それを有難いということでキャッチ出来ない。
宗教的感動というものを私共が願わして頂く、そこには修行がある 本気で今日も・・・?に叶う一日でございますように、日々そうした神様のお働きが、永瀬さんが受けられたようなものがその時だけというのではなくて、いつもかつもそういう素晴らしいタイミングの中におかげをおくりあわせ頂けていけれるのであるから、そういうおかげを頂いていくために、なるほどお道の信心はふぐのようなもの、天下一品の珍味とおっしゃるような味わいあるおかげ、そういうおかげをいただかさせてもらわなければならない、ところが私共は それはときたま、椛目にいよいよ有難いというてお参りしておられるほどしの方ならば、そういう体験は誰でも持っておられると思うんです。ですから、それをずうっと頂かないけんのです。
金銭のお繰り合わせを願う、昨日おとといでした。どうでも十万円の金をなからなければいけないんです。もう、かる事はかったんです。又参るとこもない。
神様の・・?でした。もちろん十万円・・?なかったんだけれども、向こうのほうから・・?貸してもよいということだった。
でそのときにそれじゃおかげにならないごたある感じです。やっぱあの・・?十万、・・・?おかげじゃないような考え方をしておるんですね。その人、そりゃおかげ頂いたね、て言うけどおかげと思い切らん。そこでそのことを思うたんびんに私は骨が折れる。それをおかげと思わなければ次の・・・はえてこないのです。お繰り合わせいただいた、神様のご都合だ、もちっと良い信心が出来とったらね、もっと私に徳があったら受け止めたかも知れん。えらい・・・ましたね、お話が。
今日私はは宗教的感動という事を聞いてもらった。けれど、どうしても一分一厘の間違いのない神様の働きをキャッチ出来る為のお話をした。それにはお互いが宗教的良心を持って、良心を持っておっても、それをマヒして、それを良い事も悪い事も分からんようになったら、もうおしまい。そういうような宗教的良心がマヒしてしまうような生き方の中にです、私はひとつ間違うて・・・?ある。 おかげと思っておったものを当たり前と思う、お気付けと分かっておりながらそれを、それをお気付と分からんごとなっとる、マヒしてくる、それがこわい、ですから宗教的その良心がです、そうしなければおれないという時、たとえ・・・・?おってもです、ほんとに下駄が乱れておるなら、まっすぐしなければおられないというのである。そこからわいてくる宗教的感動につながってくる。その宗教的感動がわからなければです、信心して変わった事が起こってきたら、おかげと心得て信心せよというような、それをおかげと頂ききらん。宗教的感動 それを教祖は真に有難いという言葉で表現しておられる。
今日の御理解はどーぞひとつ・・?今日のご理解はこう計算が出来るような感じですね、自分の心の中で描いてみて下さい、こうしてやったら、こうなる、というように、その宗教的感動こそ真に有難いという心、そういう心で神様が下さろうとする、神様が願うておられるところのおかげを頂かねばならん。そういう心で此頃 楽院の先生が解かれました、一心に頼めという事についてとかれましたね、一心に頼めという事は、どうぞというてすがるのではない、一心とは、神の心と、氏子の心がひとつになることだという事です。たしかにそうなんです。いうなら私がいつもここで解いていますのは、私、大坪総一郎にかけられる神様の願というのが、その願いが成就することの為に、私どもは修行すると、それを大坪総一郎の願いが成就するために修行するところに大変違ってくる、自分の小さい願い、今日も商売が繁盛しますように、神様の願いじゃないかもしれない。だからどうぞ今日も神様あなたの心にそえ奉るあり方にならせて下さいという事を、今日も私に下さろうとするおかげを頂き止めせて下さいという事と同じなんです。それが一心です。というように解かれます。そういう私共がです、どうぞ神様の心と、私共の心が一つになって同じ願いに向かって、神様と私共が一緒に進んで行く、一緒に修行してやおる、そして生れてくるところのおかげ、そういうたとえば願いを、宗教的感動の中から、生れてくる祈りでなければ、それは非常に言葉ばかりの事になってしまう。本当の力にはなってこない、本当のおかげにはなってこないと思うのです。
宗教からでなければ生まれてこない喜び、そういう喜びを持って、どうぞ私にかけられる神様の願いというものが、成就してまいりますようにという願い。そういう願いをさせてもらわねばならない。それでも私共は痛ければ痛い、痒ければ痒い、商売するものはやっぱり商売繁盛のおかげを頂きたい。だからそれを願っていけないのではない、痛いのは痛いという事を、商売繁盛の事でも素直に願わせて頂くと同時に、今日申しましたような事を根本として、そういうところをひとつの願いとしてです、願っていく、いわば私共のたとえば親、兄弟といったような願いでもさせて頂かれたら、おかげになると私は思います。
・・ここのお広前、沢山のお部屋が出来ます。しかも部屋ごとに時計がある。ところがこの時計はもうこれはなんちゅうですかね、あの電波時計、これは中にラジオが仕込んである。だからこうするとラジオが聞こえてくる。だからラジオの時間の放送にぴたっとおうていく。だからこれは立派に標準、これは絶対間違いない。だからこれを標準にして各部屋のがあわしていけば間違いのないのです。ところが今日私参りましたらテレビ室・・?やっぱコタツの間に置いてあるとも時間が大分一時間も違う、こりゃ・・・いくら時計があったちゃ同じ。
私がどのように一分一厘間違いのない働きを皆さんに見てもらいましても、どんなに一分一厘間違いのない今日の永瀬さんのような話を聞いて頂きましても、皆さんがね、そういう一分一厘間違いのない働きがどこから生れてくるのかということをです、皆さんが本当に求めるという気にならなければ、そしてそれに合わせていこうという気にならなければ、本当にネジがゆるんでいるなら締めていこうという気にならなければ、もう家に帰ったらとまっとる、もう、くるっておる、これではお役に立たんでしょうが、
今日私は大変理屈っぽいお話になりましたけれども、今日の理屈のところは大変な理屈ですから、皆さん、心の中で一ぺんよく描いてみて下さい。そして今、最後に締めくくりの言葉という事を神様に願わして頂いたら、今、各部屋にあります時計がまちまちであるところをただいま頂くんです。ですからいかにこれが標準だ、間違いがないというても私が間違いないというても、まあ私に合わせて行けばいいのです。
だから私が右向いた時には皆さんも右を向かないかんのです、私が左向いとるときにはあなたがたも左向かないかんのです。
ね、いわゆる親先生の信心にいつも合わせていこうという精進努力をしなくて時々来てから、今何時ですかという事を聞いて帰るだけのことではです、もう家に帰ったら もう何時かわからんという事になるのです。
どうぞ